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美濃 落合砦 🏯明智光秀出生地とも伝わります

美濃 落合砦 (岐阜県恵那市明智町落合・取手山)

小学校6年生の時だったと記憶しています。
「邪馬台国」は一体どこにあったのだろう??・・。
図書館で本を借りまくり研究?していた時期が懐かしく思い出されます。

小学生なりに大真面目に『魏志倭人伝』と西国地図とにらめっこ(笑)。
当時から九州説と畿内説の2大説が大半の意見でした。
でも少年久太郎クンは最終的に「ここだ!」と確信した所に辿り着きました。

なぜこんな出だしになってしまったかと言いますと・・。
ここが(ここも)明智光秀公の出生地と伝わっているからです。

今回の落合砦、別名が多羅砦、とか土岐明智城、とも呼ばれています。
明智光秀公の出身地は岐阜県内にて何ヶ所かあるのですが、
いずれも確証するには至っていません。

otitara (17)2つのピークで成り立つ落合砦。

otitara (1)
すぐ東裾の千畳敷公園の駐車場を利用します。

otitara (9)明智光秀公産湯の井戸が伝わっています。

otitara (10)
石組みのしっかりとした井戸ですこと。

otitara (11)
光秀出生の井戸は美濃エリアには数ヶ所も・・。

出生地を後押しするのに井戸は何故か取り沙汰されますね。
何故「産湯井戸」を口を揃えたかのように挙証するのでしょう?
何か神聖的なものを付与したい、という想いが感じられてなりません。

じゃ、光秀公の出生地、果たしてどこよ?と訊かれましてもそれはわかりません。
・・いえ、自分の中ではもちろん自論はあります。・・がここではちょっと・・。
邪馬台国の位置も光秀公の出生地もミステリーは説き調べ問い続けることが醍醐味かと。

なんだ・・。振っておいてまた逃げるのかよ・・(堪)。

otitara (2)
先ずは主郭部と思われる本丸へ。新緑が清々しい・・。

北側に恵比寿神社が祀られている広大な曲輪。
削平加減は手入れがされたとを差し引いてもかなりしっかりしています。
周囲に腰曲輪を従える本丸に相応しい規模です。

otitara (20)新しく城址説明碑が設置されました。佐伯哲也氏の縄張り図付きです。

天正元年(1573)には串原遠山氏の遠山経景が落合砦に入城したそうです。
明知城が武田氏に奪取されるまでは遠山氏の持ち城だったことが窺えます。
去る上村合戦の敗北以来の武田氏に備えての異動があったのかもしれません。

otitara (3)
木々の間から明智町の街並みと明知城・仲深山砦なども見えます。

otitara (7)
こちらも以前と比べると格段に見学しやすくなりました。

otitara (6)本丸北側に突き出した切岸ラインが切れ味鋭い。

otitara (8)
腰曲輪もよく残っていました。

otitara (12)
鞍部には土橋状の尾根を介して北出丸へと連絡します。

ちなみにこの連絡道は現在車道幅の公園内道路が敷かれ破壊されています。
地形的にはこの鞍部には堀切があったと想定されます。
もちろん現在でははっきりとした痕跡は認められません。

otitara (15)
北出丸の様子です。すっかり公園として整備されてます。

otitara (16)
切岸ラインはしっかり残っており、風通しも良い芝生公園。

otitara (13)
北出丸からの眺望はとても素晴らしい!

otitara (14)東方面には明知白鷹城と仲深山砦が居並んでいる様子がよくわかります。

そしてここ落合砦を含めて3つの城砦が存在することになります。
城同士の間隔は谷や川を隔てたわずか約400メートル。
およそ800メートル直線上内に3つの城が威容を並べているなんて・・。

城の密状態です。

otitaraz.jpg整備された落合砦を図面に描いてみました。

主郭部周辺部と出丸ともに内部が公園整備の為、山中に遊歩道が造られました。
また北出丸の西には送電線施設が設けられるなど一部改変された形跡もあります。
その影響でどこまでが遺構か不明な点も挙げられます。

本丸と北出丸間の西には光秀出生井戸があり、曲輪とされています。
が、改変甚だしく積極的には曲輪址とは言い難い状況です。
井戸が当時から実在した可能性はあったとして・・。

個人的には「光秀公云々」を抜きにしてこの砦の存在意味を見てみたいです。

堀切や畝竪堀を多用した明知城や仲深山砦といった近隣城砦と比べると・・。
落合砦はほぼ切岸と曲輪群のみで構成されています(一部に竪堀遺構あり)。
が、かといって機能した時期がそれらの城より遡る、という訳ではなさそうです。

軍事的緊張度と重要度の違いから遺構の有無は変わってくるからです。
これは現地踏査でのフィーリング感覚ですが・・。
特に仲深山砦の切岸ラインと曲輪の規格や連動性は似ている所があります。

恐らくですが同じ勢力下による同期の築城姿を今に残してるのでは、と推測します。
例外はありますが敵味方同士でこれだけの至近距離での構築は考えにくいのです。
となると明知城周辺を掌握した武田氏勢力下での改修後の姿との見方もできます。


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 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

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