近江 肥田城 🏯長谷川秀一近江赴任の城
近江 肥田城 (滋賀県彦根市肥田町)
東郷侍従・長谷川秀一公の旧蹟を巡って その③
「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが・・。
昨今はまだまだ暑い日もあって油断できないですね。
けれど風がひんやり心地良いので出掛けやすくなります。
なおこの慣用句、「辛いこともいずれ時期が来れば去っていく」という意味も含まれています。
出掛けたくとも出掛けられないこのコロナ時世。
行きたい時に、行きたい場所、会いたい人のもとに行ける、そんな願いも込めたいです。
さて、東郷侍従・長谷川秀一公の史跡巡りと称してあちらこちらへと回っております。
(これに関してはなんだかんだ言いながら移動自粛できてねぇじゃねーか(# ゚Д゚))
尾張の長谷川邸から越前の東郷槇山城、そして今回は近江の肥田城となります。
すぐ北を流れる宇曽川の渡し場付近の眺めです。
川に架かる高橋の袂、肥田ロマンロード史跡マップが詳しいです。
城跡の南東部付近にあたる崇徳寺を訪ねました。
崇徳寺は歴代肥田城主の菩提寺です。
城は文亀3年(1503)に六角氏の家臣・高野瀬隆重によって築城されました。
以後の城主は織田信長家臣の蜂屋頼隆、長谷川秀一と続きます。
周辺を歩く際はお寺の駐車場をお借りすると良いと思います。
境内には城主らの墓碑もあります。
また各城主らの肖像画を所蔵されています(肥田城案内板に図示あります)。
本堂内資料館では城主画像の摸本や城周辺の地籍図など城に関する資料が展示されます。
(訪問時はコロナによる措置政策のため遠慮させていただきました)
崇徳寺の北西方面に城址石碑が立ちます。
石碑から入った奥部一帯が中心部だったようです。
肥田城の説明案内図には地割り図も入り城域を推定しやすいです。
こちらの案内図では集落を囲むような土塁が示されています。
ぐるっと一周しながら散策すると面白そうです。
また歴代城主らの肖像画も目にできて結構贅沢な案内板となっていました。
それぞれのお顔立ち、御召し物、烏帽子の角度など、個性があります。
(でもシャッフルされたら当てる自信ナシ)
左から築城者と伝わる高野瀬隆重、野良田合戦時の当主・高野瀬秀隆、
織田統治下の蜂屋頼隆、羽柴統治下の長谷川秀一となり、最後の城主が長谷川秀一です。
織田家では有能な奉行衆としての働きが主な任務の秀一でしたが・・。
秀一に限ったことではありませんが本能寺の変によって運命が大きく変わります。
この日、本来なら秀一は信長の世話回り人の一人として本能寺で行動していたでしょう。
しかし、たまたま徳川家康と大阪の堺にて同行していました。
難をまぬがれた、といってもいいでしょう。
飯盛山で本能寺の急変を知った秀一は土地鑑に乏しい家康一行の案内を買って出ます。
河内から山城、近江を経て伊賀へと抜ける道取りを家康一行に説明し、
急使を飛ばして大和国衆に護衛の兵の派遣を要請、行く先の渡しの渡河等を手配しました。
そして秀一旧知の近江信楽の代官・多羅尾光俊の所領を通って伊賀越えを決行。
そして辛くも家康・秀一ら一行は安全圏の尾張熱田に着き三河へと窮地を脱しました。
この時家康の家臣・服部半蔵らの活躍が取り上げられますが秀一の根回しあってのことでした。
天正11年(1583)秀吉と柴田勝家が対立では秀吉を支持し滝川一益領の伊勢・峰城を攻撃します。
同年、秀一は蜂屋頼隆の岸和田城赴任に伴い肥田城主となります。
その後も小牧長久手の戦い、千石堀城の戦い、太田城の戦いで戦功を重ねていきます。
天正13年(1585)越前・東郷槇山城に移り、この頃に肥田城は廃城になったようです。
山王祠にも肥田城の石碑が置かれています。
山王とは日吉山王を指し、日吉大社(天下泰平と五穀豊穣を祈る社)を祀ります。
肥田城にもかつて守護神として山王祠が祀られ安泰祈願されていたそうです。
肥田城の主郭部もここ一帯だったのでしょうか。
城の中心部一帯であったと伝わる山王祠。
城跡は新田開発によってほぼ水田となっています。
このため当時の城跡としての遺構は目にすることはできません。
しかし廃城後(17世紀後半以降)に水防上の施設として土塁が普請されました。
かつては城の外郭土塁・堀だと考えられていましたがその範囲の広さと、
一部の土塁の発掘調査からやや後年の遺構だと考えられるようになりました。
肥田城としての遺構か不明ですが、集落を守る総構えとしての遺構見学は必見です。
こちらは水路と並行して伸びる土塁の様子。
集落を囲むようにずっと先までのびています。ちょうど彼岸花が咲いていました。
壕は用水路として、土塁は民家の畑や花壇など、生活に溶け込んでいます。
織田政権下ではそれまで近習・僚吏として事務方の仕事が多かった秀一でした。
しかし秀吉のもとで肥田城主となった前後あたりからは武功が目立ち始めます。
というよりあの本能寺の夜から変わった、といってもいいかもしれません。
羽柴政権下では奉行職でも秀一ような的確な差配力と実行力が重視されたのでしょう。
また畿内や近江における人材との強い親交パイプをもった存在もあげられましょう。
当然ながら茶の湯や和歌など文化的な面でも精通するものがあったことも想像できます。
やや鼻が高く部将クラスたちにも全くへつらうこのない豪気な性格であったとされる秀一。
そうした堂々とした態度の中に一歩抜きんでる利発さを兼ね備えた面があった、と思われます。
秀吉は秀一をそうした老成した人物として認められていたことは確かでしょう。
3回にわたってつらつらと並べ立てた秀一公の旧蹟巡りでしたが感無量でした。
これにて自分の長谷川秀一公への愛、一旦ここで終了させていただきます。
今度あるとしたら・・、肥前・名護屋城の長谷川秀一陣所を訪ねてみたいものですo(^▽^)o!
なお、この肥田城は水攻めが行われた城としても有名です。
そして浅井・六角軍の間で繰り広げられた野良田合戦の舞台ともなった所です。
次回は肥田城の水攻めと野良田合戦について触れてみたいと思っています。
本記事(と次回記事)に関連する紹介スポットを示してみました。
東郷侍従・長谷川秀一公の旧蹟を巡って その③
「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが・・。
昨今はまだまだ暑い日もあって油断できないですね。
けれど風がひんやり心地良いので出掛けやすくなります。
なおこの慣用句、「辛いこともいずれ時期が来れば去っていく」という意味も含まれています。
出掛けたくとも出掛けられないこのコロナ時世。
行きたい時に、行きたい場所、会いたい人のもとに行ける、そんな願いも込めたいです。
さて、東郷侍従・長谷川秀一公の史跡巡りと称してあちらこちらへと回っております。
(これに関してはなんだかんだ言いながら移動自粛できてねぇじゃねーか(# ゚Д゚))
尾張の長谷川邸から越前の東郷槇山城、そして今回は近江の肥田城となります。
すぐ北を流れる宇曽川の渡し場付近の眺めです。
川に架かる高橋の袂、肥田ロマンロード史跡マップが詳しいです。
城跡の南東部付近にあたる崇徳寺を訪ねました。
崇徳寺は歴代肥田城主の菩提寺です。
城は文亀3年(1503)に六角氏の家臣・高野瀬隆重によって築城されました。
以後の城主は織田信長家臣の蜂屋頼隆、長谷川秀一と続きます。
周辺を歩く際はお寺の駐車場をお借りすると良いと思います。
境内には城主らの墓碑もあります。
また各城主らの肖像画を所蔵されています(肥田城案内板に図示あります)。
本堂内資料館では城主画像の摸本や城周辺の地籍図など城に関する資料が展示されます。
(訪問時はコロナによる措置政策のため遠慮させていただきました)
崇徳寺の北西方面に城址石碑が立ちます。
石碑から入った奥部一帯が中心部だったようです。
肥田城の説明案内図には地割り図も入り城域を推定しやすいです。
こちらの案内図では集落を囲むような土塁が示されています。
ぐるっと一周しながら散策すると面白そうです。
また歴代城主らの肖像画も目にできて結構贅沢な案内板となっていました。
それぞれのお顔立ち、御召し物、烏帽子の角度など、個性があります。
(でもシャッフルされたら当てる自信ナシ)
左から築城者と伝わる高野瀬隆重、野良田合戦時の当主・高野瀬秀隆、
織田統治下の蜂屋頼隆、羽柴統治下の長谷川秀一となり、最後の城主が長谷川秀一です。
織田家では有能な奉行衆としての働きが主な任務の秀一でしたが・・。
秀一に限ったことではありませんが本能寺の変によって運命が大きく変わります。
この日、本来なら秀一は信長の世話回り人の一人として本能寺で行動していたでしょう。
しかし、たまたま徳川家康と大阪の堺にて同行していました。
難をまぬがれた、といってもいいでしょう。
飯盛山で本能寺の急変を知った秀一は土地鑑に乏しい家康一行の案内を買って出ます。
河内から山城、近江を経て伊賀へと抜ける道取りを家康一行に説明し、
急使を飛ばして大和国衆に護衛の兵の派遣を要請、行く先の渡しの渡河等を手配しました。
そして秀一旧知の近江信楽の代官・多羅尾光俊の所領を通って伊賀越えを決行。
そして辛くも家康・秀一ら一行は安全圏の尾張熱田に着き三河へと窮地を脱しました。
この時家康の家臣・服部半蔵らの活躍が取り上げられますが秀一の根回しあってのことでした。
天正11年(1583)秀吉と柴田勝家が対立では秀吉を支持し滝川一益領の伊勢・峰城を攻撃します。
同年、秀一は蜂屋頼隆の岸和田城赴任に伴い肥田城主となります。
その後も小牧長久手の戦い、千石堀城の戦い、太田城の戦いで戦功を重ねていきます。
天正13年(1585)越前・東郷槇山城に移り、この頃に肥田城は廃城になったようです。
山王祠にも肥田城の石碑が置かれています。
山王とは日吉山王を指し、日吉大社(天下泰平と五穀豊穣を祈る社)を祀ります。
肥田城にもかつて守護神として山王祠が祀られ安泰祈願されていたそうです。
肥田城の主郭部もここ一帯だったのでしょうか。
城の中心部一帯であったと伝わる山王祠。
城跡は新田開発によってほぼ水田となっています。
このため当時の城跡としての遺構は目にすることはできません。
しかし廃城後(17世紀後半以降)に水防上の施設として土塁が普請されました。
かつては城の外郭土塁・堀だと考えられていましたがその範囲の広さと、
一部の土塁の発掘調査からやや後年の遺構だと考えられるようになりました。
肥田城としての遺構か不明ですが、集落を守る総構えとしての遺構見学は必見です。
こちらは水路と並行して伸びる土塁の様子。
集落を囲むようにずっと先までのびています。ちょうど彼岸花が咲いていました。
壕は用水路として、土塁は民家の畑や花壇など、生活に溶け込んでいます。
織田政権下ではそれまで近習・僚吏として事務方の仕事が多かった秀一でした。
しかし秀吉のもとで肥田城主となった前後あたりからは武功が目立ち始めます。
というよりあの本能寺の夜から変わった、といってもいいかもしれません。
羽柴政権下では奉行職でも秀一ような的確な差配力と実行力が重視されたのでしょう。
また畿内や近江における人材との強い親交パイプをもった存在もあげられましょう。
当然ながら茶の湯や和歌など文化的な面でも精通するものがあったことも想像できます。
やや鼻が高く部将クラスたちにも全くへつらうこのない豪気な性格であったとされる秀一。
そうした堂々とした態度の中に一歩抜きんでる利発さを兼ね備えた面があった、と思われます。
秀吉は秀一をそうした老成した人物として認められていたことは確かでしょう。
3回にわたってつらつらと並べ立てた秀一公の旧蹟巡りでしたが感無量でした。
これにて自分の長谷川秀一公への愛、一旦ここで終了させていただきます。
今度あるとしたら・・、肥前・名護屋城の長谷川秀一陣所を訪ねてみたいものですo(^▽^)o!
なお、この肥田城は水攻めが行われた城としても有名です。
そして浅井・六角軍の間で繰り広げられた野良田合戦の舞台ともなった所です。
次回は肥田城の水攻めと野良田合戦について触れてみたいと思っています。
本記事(と次回記事)に関連する紹介スポットを示してみました。
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