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信濃松本 山家城(中入城) 🏯増築を重ね何時しか複合城郭並に

信濃松本 山家城 【中入城】 (長野県松本市入山家中入・秋葉山)<県指定史跡>
< 小笠原氏城館を訪ねて その② >

いつの頃からでしょう・・。
若い頃にはさほどにも感じなかった四季の移り変わり。
40代も終盤に至って自然と大事に思うようになりました。

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「目に映る景色も 少しずつ変わるよ」
「満開の桜や 色づく山の紅葉をこの先いったい何度 見ることになるだろう」
竹内まりやさんの『人生の扉』の歌詞が胸にしみる年頃になりましたね~。

が、まぁ、まだまだ老け込む歳でもなし(;^_^A)
これこらも『城の扉』をバンバン開けていきたいと思っています!
・・しかしながら・・。

このコロナ状況下。怖れながらも日々の生活を続けていかねばなりません。
趣味とはいえこうして山城に身を置くことができること自体が貴重な時間・・。
そんなことを噛み締めながらの信濃遠征巡業・今回は山家城となります。

ogsjmm (140)対面の城・宮原城下から眺める秋葉山・山家城。

山間部の独特なのどかさに懐かしさを感じる集落です。
集落を走る水路、立ち昇る野焼きの煙、遠くに聞こえる草刈り機の音・・。
住民同士の繋がりが何より大切にされ求められる暮らしがあります。

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麓の館跡と伝わる徳運寺に駐車場をお借りして登城しました。

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稲荷社が祀られた削平地群がおそらく大手方面なのでしょう。

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すぐに堀切が定間隔で現われ確実に阻まれていきます。

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どの堀切も両脇面を竪堀として落としています。

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尾根に沿って塁段曲輪が敷かれています。徐々に規模が大きくなってきました。

ogsjmm (104)主郭部相当級の堀切が中腹部から現われます。

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その頭上、主郭部を見上げます(いよいよだ)。

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雨明神社が祀られる主郭部は土塁囲みの形跡が残っています。

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山家城は山家氏によって築かれたと伝わります。
その後永正2年頃(1505)に播磨より折野昌治が山家氏を称し小笠原貞朝に仕えました。
天文19年(1550)に武田信玄による林城攻めの際にはいち早く武田氏に降っています。

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「小笠原氏」と彫られた石碑が祠の脇に立っていてなんだか意味深。

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曲輪の東側面を降りてみるとお待ちかねの石垣が(鼓動バクバク)。

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出会いはスローモーション♪(実際唄ってた)

smybtik (4)信濃の山城ではその高さと美しさを誇るといわれる素晴しい石垣です。

高さは場所により3メートル近くにもなり主に平石を丁寧に積み上げています。
現在にいたっても石垣に膨らみもみられず垂直状態を維持しています。
ここに立ってしまうと立ち去り難くなるのか、また何度も戻って見に来てしまいます。

ogsjmm (119)背後の堀切からは5条連続の深い堀切を設けています。
そんなに掘ってどうするつもりか・・。

面白い所はそれぞれの堀切が谷に落ちながら合流していく様です。
合流した竪堀がまた一本の竪堀へと統合されていく姿も計算された仕掛け。
谷筋を登ってくる敵兵を分散させる効果もあったのでしょう。

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堀切はさらに上部の奥曲輪(秋葉曲輪)に至っても続いていきます。

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城郭として成り立っている縄張りの上部に更なる普請。

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武田氏の支配下にはいった後の増設部分と考えられている畝竪堀。

・・と、ここまできて奥曲輪(秋葉曲輪)の写真を撮り忘れたことに驚愕するのでした。
なんたる失態か・・。がしかし、またいつか行きたい城の筆頭候補です。
次の機会には歓びを分かち合える友と登りたいものです。

山家氏による黎明期。小笠原氏による戦国運用期。
そして武田氏による改修期を経た小笠原氏の再復興期。
それぞれの時期の城の在り方が反映され複合城郭並みの大きさとなったようです。

snybstk.jpgそれではお気に入りシメの一枚は高石垣ではなく主郭部南の石垣です。

高石垣が素晴らしすぎて隠れてしまっていますが・・。
小笠原氏城郭系に最もよく見れられる腰石垣です。
しっかりと上部遺構を支えている、そんな姿に涙が・・。

様々な過程を経て増改築を受けた形跡を辿ってみるのも楽しいかと思います。



徳運寺さんの駐車場をお借りして境内の西墓地より尾根道を辿ります。 
気を付けたいのは帰り道です。南尾根に入ってしまうと来た道筋と異なってしまいます。
新しい遺構との出逢いもありますが道がなくなりますので下山の際は注意です。

信濃松本 桐原城 🏯縦横無尽の竪堀と雛壇石垣

信濃松本 桐原城 (長野県松本市入山家桐原・桐原山) <県指定史跡>
< 小笠原氏城館を訪ねて その① >

「小笠原氏城砦群」というものがある、というのは以前より聞いていました。
信濃中南部に勢力を築いた信濃守護職・小笠原氏が築城に携わった城郭群です。
独特の竪堀手法と大堀切、巨大土塁、そして魅力的な石垣・・。

自分のこの目でしっかと見てみたい・・。

この秋はそんな「念願」にも近い形でその遺構群を目の当たりにしてまいりました。
訪問城としては本当に一握りの代表的な城ばかりでしたが。
しかしどの城も時の過ぎるのを忘れさせてくれるほどの素晴らしい別空間・・。

至極簡単ではありますがランダムに、そしてアバウトに、
しかしポイントは押さえての記事にて紹介していこうかと思いました。
今回のファーストクライムは桐原城です。

ogsjmm (37)海岸寺沢と追倉沢に挟まれた尾根山一帯が山城遺構部。

ogsjmm (96)この大手城址碑に恵みあれ。ここに駐車できゲートから登ります。

ogsjmm (39)城歴は案内版にお任せして話を進めていきたいと思います。(逃げ)

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先ず大手登城道にてご挨拶は二条連続堀切、の×2セットでシャットアウト。

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下に延びるほどに深くなっていく「奈落の竪堀」。一体どこまで延びている?

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そして姿を現わしてくれました。石垣群にフェードインです。(勇者ライディーン?)

ogsjmm (57)累々と重なっていく石垣群、目を奪われすぎて足元注意!

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石垣の高さは1メートル前後に統一されているようです。

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何段にも細かく雛壇状に分積することで高さを出していきます。

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二の曲輪虎口は石垣積みの内桝形を形成。固い守りです。

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斜面の等高線に沿わせた石垣の曲線美にも特徴が見られますね。

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3の曲輪と2の曲輪の連結部は石垣主体での防御ラインで構成される。

ogsjmm (62)円墳墓のような美しい主郭部を見上げます。(紅葉もバッチリ綺麗でした)

城内はとても見通しがよく全体像が把握しやすく見学できます。
恐らく保存会の方々による小まめな整備による賜物だとご推測いたします。
ここまで見やすいと自由自在に城中を駆け巡ることができましょう、感謝したいです。

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南の虎口から主郭部へ進入。崩れた石垣がその堅固さを物語っています。

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城は寛正元年(1460)桐原真智によって築かれたと伝わります。。
真智は、犬甘城主犬甘政徳の弟で、信濃守護・小笠原清宗に仕えました。
小笠原氏居城・林城の支城として薄川をはさんで向かい合う位置に構築されています。

天文19年(1550)林城が武田氏に攻略された時、小笠原長時は一時この桐原城に逃れました。
天正19年(1591)に旧領を回復した小笠原長慶は、林城をはじめ領国の諸城を改修したそうです。
桐原城もこの時改修され、城主には桐原氏が返り咲いた、ということです。

現在目にしてる姿はその時の痕跡なのでしょう。

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主郭部背後をコの字大土塁で包んでいます。

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コの字大土塁の天端から広い主郭内部を見渡せます。

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主郭部からは2の曲輪やその下部の遺構群も観察できます。

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土塁の背後は堀切との間に迎撃用テラス部を設けているのが斬新かつ実用的。

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そして直下からは三重の堀切・土塁が重なって行きます。(ここまでやりますか・・)

ogsjmm (75)堀底はY字に分かれて竪堀が落とされます。

いったいこの先はどうなっているのか?ワクワクです。
気にならない方がおかしいです。辿ってみたい衝動が止まりません・・。
「どっちの堀底を進みますか?それとも竪土塁の上を辿りますか?」

これはヤバいです、どんどん楽しくなっていくのです。

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堀底は辿り降りるのが無理なくらいの竪堀へ。そして当然ここも奈落級。
(降りたら登って上がる自信ナシ・・落ち葉が滑るのです・・)

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分かれたY字型竪堀の間には幾筋もの畝状竪堀も(こんなところにまで)

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二重目の堀切土塁の上部も石垣で補強されています。

斜面や尾根にはまだまだ無数の堀切・竪堀が仕掛けられています。
大半の堀切は竪堀として麓方面に伸びており、それを補う竪堀も幾筋に落とされます。
大小様々、長短様々、直曲様々、しかし一本一本に目的が与えられているのです。

こんなに面白い芸術作品があるものでしょうか。
これが「小笠原流なのか・・」流鏑馬や茶道だけではなく築城技術にもあるのですね。
時間があったらいつまでも愉しみたい・・そんな桐原城でした。

kiriharaj.jpg最後はお気に入りの一枚。立ち去りがたき思いでの下山となりました。


麓の入口に城址碑が立っています。
説明版の立つ場所からゲートを開け(当然閉めもして)登ります。
ビニールハウスの脇の道に路上駐車できると思いますができるだけ路肩に寄せましょう。

北信濃 松代城(海津城) 🏯戦国北信濃の触発拠点と真田氏の気風

北信濃 松代城(海津城) (長野県長野市松代町松代) 《国指定史跡》

今回の北信濃の城めぐりでの〆の城となります、松代城を訪問しました。
中世は海津城として川中島の戦いの舞台ともなった北信の最重要拠点です。
また近世では松代城として幕末まで真田氏の居城として存続しました。

kaizu (2)前橋と橋詰門を渡って城内へ入っていきます。

屋根が瓦ではなく、栩葺(とちぶき)屋根で復元してあるのが良いです。
奥の太鼓門と手前の橋詰門とで内枡型を形成しています。
真田氏系の縄張りっぽいですね。

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二ノ丸土塁には二重の土塁が復元されています。

kaizu (18)太鼓門前橋、そして橋詰門です。

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おだやかな水面の内堀の様子。

kaizu (7)在りし日の松代城はこんな様子でした。

永禄3年(1560)、武田信玄の命で山本勘助により築かれ完成しました。・・らしいです。
武田氏が滅亡すると、織田信長の部将・森長可が入城。
本能寺の変により森長可が美濃・兼山城へ退くと、上杉景勝の支配する所となります。
景勝が会津に移封となると、豊臣秀吉の蔵入地となり、後に田丸直昌が入城します。
慶長5年(1600)、直昌は美濃岩村城へ移封となり、代わって美濃・兼山城より森忠政が入城。

慶長8年(1603)、森忠政が美作国津山に移封となり、松平忠輝の所領となり城代が置かれ後、
松平氏、酒井氏、そして元和8年(1622)真田信之が上田より十万石で入部し明治に至るのです。
・・めまぐるしく武田、織田、上杉、豊臣、徳川、と戦国列強たちの奪い合いの地となりました。

kaizu (16)太鼓門を見上げます。切妻造の存在感ある建築物です。

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日向さん、埋門も通ってみましょうか。

トンネル状に造られているのは、緊急時に埋めることができる門、ということです。
身長が178センチ以上あれば頭をぶつけます!要注意!
(久太郎、惜しくも175センチ、背伸びしてわざとぶつかる・・)

kaizu (4)戌亥隅櫓台にやってきました。・・いいですね・・。

kaizu1.jpg天守台相当の規模をもつ櫓台です。(天守台だと思っていました・・)

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野面積で積まれ、隅角部が算木積で組まれています。安定感を感じます。

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北不明(きたあかず)門の外桝形部へと入っていきます。

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北不明門も復元されています。

櫓門の上の部分が両側の石垣から解放された自立式の形式です。
この形式は意外と珍しいものです。

kaizu (13)本丸に建つ海津城の石碑が硯のような表面でいいです~(*´~`*)。

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隅櫓からの二ノ丸を眺めます。

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隅櫓から延びる土塁。

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東不明門址を通り、二ノ丸へと木橋を渡ります。

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高い土塁で囲まれた二ノ丸は芝生広場として憩いの場所になっています。

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石場門址付近では土塁から転がり落ちる、お笑い担当の三男クンにマジ笑う。

斜面を勢いよく転がり落ちる様に土塁の威力を見せつけられた気がしました(笑)。
このように松代城は基本的には幕末まで築城時の伝統遺構を残していくのです。
本丸が近世的な姿に変貌した一方で、二の丸、三の丸には土塁や丸馬出が残ります。

ここに武田氏時代からの海津城の面影が想像できましょうし、
また真田氏における天守を上げない等の保身の姿も垣間見えたりもします。
そして新旧融合の姿が発掘調査を経てここに甦っているようでした。

松代城は真田の命脈を守り続けた城、であったのかもしれませんね。

北信濃 荒砥城 🏯中世戦国城郭のイメージを体感

北信濃 荒砥城 (長野県千曲市上山田・城山史跡公園)   <市指定史跡>

葛尾城から下山してから向かったのがこちらの荒砥城です。
葛尾城からは結構近くにありますし、温泉観光地の一環として整備されています。
戦国期の山城を模した建物や櫓が並ぶなど、本格的に復元されているのがウリです。

aratoj (3)大河ドラマなどではロケ地にもなり、度々見た覚えのある景色です。

若干、やりすぎ感は否めませんが戦国期の山城というのをイメージしやすいです。
こうした模擬建物などのおかげで、ある程度の中世山城の雰囲気は充分に味わえます。
・・メンテナンス、大変なんじゃないでしょうか?(余計な心配をしてみたりする)

aratoj (5)荒砥城の立派な石碑は入口にあります。

入城料は大人は300円で、中学生以下は無料でした。
こちらの訪問も今回で3回目です。
・・わりとお決まりコースなのかもしれません・・。

荒砥城は村上氏の一族の山田氏の持城であったと考えられています。
武田信玄によって葛尾城の村上義清が追われた後、武田氏に降った屋代正国の城となります。

天正10年(1582)本能寺の変により織田信長が倒れると、越後の上杉景勝が川中島を接収。
景勝は海津城代として山浦景清(村上義清の子)、副将として屋代秀正を置きます。
しかし天正11年(1583)屋代秀正は上杉氏を離反して徳川家康に寝返り、荒砥城に籠城します。
景勝はすぐさま荒砥城を攻め、屋代秀正を追い出します。

aratoj (1)賛否両論のこの石垣、あまり近くで見ない方がいいかも・・。

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あくまでイメージで、という意味での虎口ですが、個人的にはカッコいいと思います。

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建物の大きさや構造は時代考証に沿っているといえましょう。

aratoj (9)冠木門や長屋の再現もさることながら、柵の打ち込みパターンも本格的。

これほどの復元事業でも感想は様々で、やや二極化してしまう厳しさもあります。
「中世城郭の雰囲気があって面白い!」という素直な意見もあれば、
「貴重な史跡に暴走気味な施設がちょっと・・」という一理な意見もあるでしょう。

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雰囲気が伝われば楽しい場所です。

ここではあまり詮索しずに目で楽しんでみることが大切だと思います。
実戦的な山城はこんな風なんだ、という迫力を感じることに意味があると思うのです。
公園化は城跡整備と観光活用との両立が難しい中、ある一定レベルに達した好例といえましょう。

aratoj (10)葛尾城とその支城網が綺麗に見えました。

aratoj (4)当時のものか、と思われる石垣もちゃんと残存していますよ。

北信濃 葛尾城 🏯北信の雄、村上義清の本拠城

北信濃 葛尾城 (長野県埴科郡坂城町坂城・戸倉町磯部) <県指定史跡>

今年の「城納め」と称し城友である日向さんと北信濃へとやってきました。
お互い年末の忙しくなるであろう前のこの時期、恒例行事となってまいりました。
気になる天気も予報以上の好天気に恵まれました。

・・さて唐突ですが、信濃の戦国大名、というと皆さんは誰を思い浮かべるのでしょう?
真田という方も見えれば、いや小笠原でしょ、とか諏訪氏だ木曽氏だと代表格不在の地域では?。
武田信玄に併呑されるまでは地方ごとに一円支配をした小大名が割拠している状況でしたね。

今回訪れた葛尾城は北信濃最大級の領国としていた村上義清の居城です。
(何を隠そう、自分は北が村上義清派、南が木曽義康派でございます・・)

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katuraoj (4)麓から見ても肉眼で深い堀切や曲輪が確認できます。
(電線がかぶってしまいました・・(ノ_<))

今回の訪城は実は3回目なので過去の思い出も織り交ぜながら書いてみました。
最初は弟クンと、2回目は家族で、そして今回は日向さんと、との訪問です。
ん?・・最初の弟クンとの写真、残ってないな~。(見つけられないので先へ進みます!)


葛尾城への道のり・林道コース編(今回のコース)

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日向さんのジムニーにてダート林道から尾根筋まで登れます。

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割と整備されていますが、道路際が結構狭いので、やはり軽4駆がいいですね。

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案内板のある駐車場まで行けます。

katuraoj (29)縄張り図付きの説明版で遺構部を確認していきます。

「信州稀代の名将、村上義清!」
オラが地元の英雄だべさ!感がいいですね。かつてはこんな幟もたなびいてましたヨ。

自分も高校生の時、新聞で連載されていた「信濃戦雲録」という小説を楽しみに読んでいました。
そこに登場した村上義清は匹夫の勇でなく、実に戦の駆け引きに優れた統率者でした。
以来、ずっと憧れの名将でもあります。

村上義清の魅力とは何でしょう。
やはり正面から武田軍に戦いを挑み、二度にわたり武田晴信の軍を撃退したことでしょう。
武田信玄が生涯で最も手こずった敵は、上杉謙信より義清、ともいえましょうか。

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木の葉が落ちてとても見学しやすい状況になってました。

・・こころなしか、いや、確実に少しスリムになった日向さんです。
山城歩きの影響でしょうか?、それとも通常激務のお仕事のためでしょうか?
山城歩きは体調管理にもとてもいい趣味だと(個人的に)思うのです。

katuraoj (8)しばらく歩くと櫓台でしょうか、石垣に囲まれた小曲輪に到着します。

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積み方はいかにも適当そうですが、なんとも味があります。

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大堀切が待ち構えています。それもコブが2つ見える連続大堀切でしょう。

狭い馬の背状の尾根筋に幾つもの堀切が切られています。
しかも左右に竪堀となって落ちていきます。
ここまで周到にされると進入不可能!、回り込みも不可能!です。

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主郭に近づくほど、堀幅も大きく高低差も大きくなっていきます。

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本丸の背後の2条は特に深く、巨大彫刻刀で削り取ったようです。

katuraoj (22)このような階段が付けられており、とても助かります。

まず普通に登ることは困難な斜度ですので非常に有り難いです。
いたずらに登れば遺構を崩してしまうことになります。良心的ですね。
これなら足腰の弱い方でも気軽に見学ができる、というものです。

katuraoj (10)今回、心を奪われた溜息がでるような堀切がこちら(*´~`*)でした。

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そして、本丸に到着しました。

katuraoj (11)石板タイプの石碑に思わず腰を屈め、目線を合わせます。

山頂の本丸はそれほどの広さはありませんが、尾根状には幾重にも重なった堀切と小曲輪を配置。
それが葛尾城を巨大城郭に築き上げています。
しかも、ここからの眺望は周辺の支城網の点在も確認でき、まさに本城にふさわしい立地です。

千曲川沿いと城下の北国街道を直下に見下ろすことができます。

katuraoj (12)こちら戸倉町・更埴市方面は北アルプスの山々も望めます。

katuraoj (13)千曲川の川面が眩しい上田方面です。

日向さんと頂上のベンチで景色をみながらのクルミパンと缶コーヒー・・。
応えられない至福の時空。


葛尾城への道のり・遊歩道コース編(前回のコース)

葛尾城はもちろん、麓からの遊歩道も整備されています。
坂城神社から登るコースはかなり厳しいですが、城の要害性を体感したいのなら・・。
断然、おススメですよ。(所要時間は見学時間を合わせて2時間ほどです)

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家族でパレード登山に挑戦しました。

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落ち葉と砂地の山肌は「3歩進んで2歩下がる」、・・要害です。

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途中、何度も息を整えての登頂ですが、子供たち、歩くのはえぇ~。

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これが最後の坂。前回は子供達が先に行って待ってましたね~。

katuraoj (17)良きアングルにて本丸を下の曲輪から見上げる。(手前の真剣野郎は日向さん)

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南の尾根延長先は姫城へと続くルートになります。

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斜面がきつく、途中まで行って引き返した根性薄の我々でした・・。

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そうそう、林道からのルートには電話ボックスを利用した縄張り図のチラシが置いてあります。

こうして何度も足を運べるのも日向さんの飽くなき情熱のおかげです。
そして奥方、子供達、よくぞここまで付いてきてくれたものです。(改めて登るの大変でした)
ちなみに、葛尾城の縄張り図は今でも彼の学習机のマットに挟まれ大事にされてます。

katuraoj (30)麓には村上氏の居館跡もあり、訪ねてみました。

そりゃ、そうですよね、あんな高い山上で生活しませんもんね。
普段の生活・政務はこちらで行われていたことでしょう。
冒頭でも少し触れましたが村上義清武田信玄との戦いについてごくごく簡単に・・。

一度目の戦いは上田原の戦いで、義清が攻め時をよく心得、武田軍に圧勝します。
村上義清の戦場での駆け引きもさることながら戦闘能力の高さも見逃せないものがありました。
「諏訪とは違うのだよ!、諏訪とは!!」なんてどこかの大尉のセリフが似合います。

二度目は砥石城の戦いで、武田軍は義清が守る砥石城を攻めるものの、惨敗。
撤退する武田軍に対する義清の激しい追撃戦に武田軍は相当な被害が出ました。
後、真田幸隆が策略を用いて城を乗っ取り、義清は上杉謙信を頼って越後へと逃れます。

katuraoj (32)麓には義清公の墓所もあります。

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その後、上杉謙信武田信玄の川中島の戦いが繰り返されることになるわけです・・。
信玄としてみたら謙信をを引っ張り出してきたのは村上義清なのですから、厄介ですね。
義清にとっても最も憎い相手は武田信玄ですが小細工は使わず、常に真正面から対峙する。

そんな義清の潔さが我々の心を掴んで離さないのではないでしょうか。

支城網を整備・駆使して対抗する姿もなかなかの差配力があります。
あいつぐ部将の離反によってもろくも崩れたりはしましたが、
義清は事態の不利を早期に察知して、越後へ逃亡して、建て直しに心血を注ぎます。

義清への思い入れの分、そして何回かの楽しい訪城の分記事が長くなってしまいました。
機会があったら次回は各支城にも足を運びたいものです。
マウスロールしていただいた方々、ありがとうございました!

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来8年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)
(2023年4月6日現在)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
最近は折りたたみ自転車での平野部城跡めぐりにもハマり、寄り道での出会いも大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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