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美濃 杉野一夜城 🏯白鷹城に向けられた武田氏による白刃の砦

美濃 杉野一夜城 (岐阜県恵那市明智町杉野・大平山)
<明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦の趾・武田方編>

久し振りの記事更新になります。
久し振りすぎて何を書いていいものか思い浮かんでまいりません。
コロナウィルスの影響で城めぐりを一切断念しておりました・・。

・・と言わなければいけないところですが・・。
実を申しますと、国の解除対策状況を見ながら隣の郡に出掛け城探索しました。
しかしながらバツの悪さはありません。

世界中の専門家と言われる人や政治家が様々な意見を述べています。
でもその第一人者と呼ばれる方の意見がいつも正しい訳ではなさそうです。
いや、むしろ間違った意見を述べることも普通にあるでしょう。

何を信じ、何を鵜呑みにしないか・・。
多くの意見を聞いたうえで物事を判断していかなくてはいけません。
それができなければ今後の世界、上手く生きていけそうにありません。

・・さてかなり前置きが長くなりました。
今回は明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦のあとを巡りました。
両軍によって築かれたといわれる各々の陣城砦です。

まずは明知白鷹城攻めにあたって武田軍が陣を構えたとされる杉野一夜城です。

aketijinjiro (19)杉野地区から見上げた一夜城のある大平山。

大平山という名の通り、麓からみても山頂付近は平らになっていそうです。
大軍の駐屯地とするのであればこのような山容で眺望が得られればよいのでしょう。
大平山は明知白鷹城を南西約2.5km先に見据えています。

aketijinjiro (60)
一夜城へは安住寺の裏山の林道を利用しました。

遠山景行公の墓所がある安住寺の裏山からも直登できそうです。
が、自分は林道から地形図を頼りに適当な所から尾根を目指しました。
このあたりは勘によるところが大きいのですが、たいがいドンピシャです。

aketijinjiro (66)尾根沿いピーク手前に現われる堀切が城域への目印です。

堀切、といっても規模的には浅く遮断性を重視したものではなさそうです。
内部の遺構とは近いながらも連動性がなく単独仕様となっています。
これは遮断よりも城域を画す一線的な意味あいがあるのではないでしょうか。

aketijinjiro (68)
主郭部の周囲には狭いながらも曲輪が確認できます。

aketijinjiro (5)
曲輪からは主郭部周囲を武者走りが延びています。

後ほどの散策で解ったのですが・・。
この犬走りは主郭下部をほぼ一周しています。
手元のウォッチ機能では一周約370メートルもありました。

aketijinjiro (61)主郭部の東側の切岸を観察します。

上の写真でみるとかなり掻き揚げられた切岸に感じられます。
しかし全周囲がこの様になっている訳ではありません。
東端部と西端部の一部のみでみられる以外は実に曖昧なラインになっていきます。

aketijinjiro (63)
主郭部から見下ろす腰曲輪と堀切方面は確かに急峻になっています。

aketijinjiro (62)
主郭部内部は軟傾斜となって端部も曖昧ですが広さは充分。

「一夜城」というように視覚的に城郭に見たてることが最優先です。
内部は将兵同士が移動連絡でき、万が一の反撃に備えれば充分でしたでしょう。
城方に圧力を加えていく拠点となるのが役割でした。

aketijinjiro (70)最高所には「永久穂神社」が祀られています。

aketijinjiro (8)
明知城方面には3~4段ほどの平坦地を連続させています。

曲輪自体も粗雑で曲輪化されていない箇所も見られます。
ただ所々に見られる曲輪同士の連絡口(虎口か?)付近は比較的はっきりします。
陣城というのは端から端までを整地する必要はない、ということが理解できます。

aketijinjiro (4)
竪堀の起点のようにも見えますが連絡虎口と思われる掘り込みです。

aketijinjiro (11)南東尾根からは足下に杉野地区と門野地区が望めます。

残念ながら木々が濃く明知白鷹城が鮮明に見えるポイントはありませんでした。
しかし木々の間から僅かながら明知城の位置ががチラチラと確認できました。
城址でのチラリズム。興奮してどうする・・。

sugiiti.jpg

天正2年正月、明知城を巡っての争奪戦が繰り広げられました。
武田家を継いだ若き当主・武田勝頼と迎え撃つ遠山氏と織田信長
先年の上村合戦での勝利と岩村城の奪取の成功で意気揚がる武田軍。

杉野一夜城は岩村城から派兵した武田方による築城かと考えられています。
武田方の将・秋山伯耆守虎繁がここで戸障子をたて廻し、
一見して白壁のように見せかけた、といわれるのが一夜城の由縁です。

視覚的効果はこの上ない影響を与えたことでしょう。

或いはこの地に武田勝頼自身が出張った、とも伝わります。
当時遠山方の城砦群を文字通り「風林火山」の勢いで落としていった勝頼。
ここから睨み付けられた明知城方はすくみ上っていたのではないでしょうか・・。

この状況に対し織田方も翌月2月1日に先遣隊を明知城救援に派兵します。
信長は嫡子・信重(信忠)と共に岐阜を出立します。
風前の灯となった明知城にとって織田の援軍こそが唯の頼みとなりました。

次回は織田方が陣したといわれる鶴岡山砦を訪れます。

aketijinjiro (14)
南東尾根をさらに進むと石仏と石祠があります。

慶長8年に遠山氏はこの一夜城の跡に愛宕神社を勧請し、鬼門除けとして建立しました。
当時の名残りが今でもこうして語り継げられているのでしょう。
縄張り図面、自分には明知城に突き付けられた大きなナタの刃のように映りました。


㋹は遠山景行公夫婦の墓地がある安住寺です。
Ⓢは最寄りの林道からのルートを示しました。ここから尾根を西に辿ります。
Ⓖは杉野一夜城の主郭部です。永久穂神社が祀られています。

阿波 勝瑞城 🏯阿波三好氏の本拠点と三好長治の最期

阿波 勝瑞城 (徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地) <国指定史跡>
三好長治の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑩】

徳島県で開催されたマラソン大会参加と城&史跡めぐりのお話しです。
阿波を代表する武将とそれにまつわる城を訪問した回顧録で綴っています。
振り返ればマラソンの傍ら随分といろいろな城址を回ったものです。

大会前後ということですので足に負担がかかる山城はまた次の機会。
そろそろ今回の記事でひとまず阿波ともお別れになります。
ラストは阿波を代表する城郭・勝瑞城館に立ち寄った訪問記です。

syouzui (2)周囲を水堀に囲まれた(一部消失)勝瑞城本丸。

勝瑞城は戦国時代、阿波国の政治、経済、文化の中心地たなった重要拠点です。
「天下の勝瑞」として名をなし中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄、
細川氏と三好氏の約240年の根拠地として歴史の舞台となりました。

とても雰囲気を味わえるので堀の周囲をゆっくりと歩いてみました。
水鳥たちがたくさんいて生き物の憩いの場となっているようです。
当時からの様子がよく残った風情ある景色が味わえました。

syouzui (13)

勝瑞城は旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置していました。
また東側には今切川、南側には湿地帯に接していたようです。
当時は湿地帯に囲まれ川幅も広く攻めにくい地形であったことでしょう。

内陸部にありながら水上交通にも便利で紀伊水道を隔てて畿内へ渡航できました。
城の構えは広大で守護の居館・政庁としての性格の強い城です。
暴れ川「四国三郎」の分支流を巧みに利用した城郭でした。

syouzui (5)勝瑞城の城址石碑と三好長治公一族菩提所の碑。

一部字が剥がれちゃってますがここでは一族代表が長治なんですね。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあります。
城跡は東西約80m、南北約60mの方形居館を成しています。

syouzui (8)
一部に土塁が現存しています。

ここは北東部の土塁ですが当時は全周にわたって土塁が廻っていました。
水堀を掘った際の土砂を盛り上げて付き固めた土塁だということです。
近年に行われた発掘調査によると、かなり大規模な土塁だったようです。

syouzui (7)
笹竹に覆われた土塁の上を歩いてみました。

発掘調査によると中富川の戦いの時に急造された普請だといわれます。
ここ本丸は詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されています。
三好長治・十河存保兄弟の頃の遺構ということになりますね。

つまり長宗我部氏の勝瑞城侵攻に対抗する砦だったと考えられています。

syouzui (15)見性寺境内には三好氏歴代当主の墓がおわします。

江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一か所に移転してきたものです。
之長、元長、義賢、長治、三好氏代々の墓があります。(写真撮り忘れました)
ところで阿波三好家のその後を継いだ形の十河存保は否認されているのであろうか。
(阿波三好家の実質的な当主として活動したように見受けられるが・・)

syouzui (6)
勝瑞義家の碑。

・・これは最初正直よくわかりませんでした。で、調べました。
徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂。
彼の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されています。

「よしいえ」ではなく、「ぎちょうひ」という文献の碑。・・ややこしいス。
三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を漢文で書き連ねたものだそうです。
(藍住町指定有形文化財)

続いて勝瑞城館を訪れてみました。

syouzui (14)発掘調査で判明してきた広大な勝瑞城館址の範囲。

勝瑞城の範囲・構造の詳しくは未だ明らかになっていません。
大まかな範囲が発掘調査で出土した生活用品などから推定されています。
特徴の一つに防御機能があまり発達していないことが挙げられます。

syouzui (10)
こちらは「勝瑞城館」の石碑。

syouzui (3)
発掘調査では縦横に大規模な濠が各所で発掘されました。

平成6年から始まった勝瑞城の発掘調査で南側にも大きな遺跡があることに。
当時は「長尾鉄工所」の敷地内でしたが、工事の協力を得て敷地は公有化されました。
敷地内の地下からは貴重な遺構・遺物が多く発見されたのです。

syouzui (12)
近年復元整備された礎石建物跡と枯山水庭園。

細川氏や三好氏による強大な軍事力・政治経済力の影響が甦ってきました。
大きな濠は軍事的なものというよりは治水のための機能も有していたようです。
城館の防御のための土塁が築かれることはなく敷地の盛土に使われたようです。

館では宴会や儀式など饗応ごとが盛んになされていたことを示します。
阿波では大きな戦乱が国内では天正期まで起こらなかったためでしょう。
勝瑞城館は比較的優雅な住居的城館だったのかもしれません。

syouzui (4)今もなお続く予定の勝瑞城館調査に期待したいです。


Ⓢは勝瑞城、Ⓖ一帯は勝瑞城館を示します。

三好長治終焉の地を訪ねて (徳島県板野郡松茂町豊岡長原)

さてここまでほんの一握りの阿波の城館と武将史跡を訪ねてきました。
が、それもそろそろおしまい、阿波の地ともしばしの別れとなりそうです。
でも最後にどうしても気になる人物が自分の頭に隅に・・。

その人物は三好長治です。

三好長治三好実休(義賢)の嫡男で父の戦死後に家督を継ぎました。
幼小で家督を継いだため篠原長房らの補佐を受けていました。
しかし讒言に惑わされたか元亀4年(1573)に長房を上桜城に攻め自刃に追いやってしまいます。

その後の長治は日夜酒宴にふけり政治と向き合わず家臣の信望も著しく衰えていきます。
天正5年(1577)に三好長治細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われます。
そして同年3月長宗我部元親の支援を受けた真之と荒田野で戦って敗北。

淡路を目前とした長原の地で自害して果てます。享年25歳でした。

mysnghr (1)
長原の地に伝わる三好長治終焉の地が今回のシメ。

長治の人物についてはいい話は一切伝わっていません。
いわゆる暴君、強権政治を敷いた狂君主としての逸話が多く残ります。
上記の上桜城攻めは最たる事例です。他にも・・。

讃岐の香川之景香西佳清ら連名にて実弟の十河存保に離反を警告する書状を送られます。
弟の存保からの諫言も無視し、長治は香川・香西両氏を攻めてしまいます。
この件で讃岐の国人衆からは完全に見限られてしまいます。

阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要したこともあります。
これも当然、国人や領民の支持を失い、その上他宗からの反感まで招きます。
これらの混乱は隣国・土佐国の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発しました。

やることなすこと自らを不利な状況に追いやるばかりでした・・。

mysnghr (4)「三好野の梢の雪と散る花を長き春(長治)とは人のいふらむ」(辞世句)

阿波三好家の家督を相続した千鶴丸こと後の長治はわずか10歳。
長治が当主となって以降、三好家としては分国法「新加制式」が制定されました。
永禄9年(1566)の室町幕府第14代将軍として足利義栄を擁立するなどの動きがありました。

しかしこれらの事績は基本的に篠原長房や三好三人衆ら重臣の主導で行なわれたものでしょう。
恐らく長治には発言権もなく蚊帳の外におかれていたのではないでしょうか。
傀儡化された当主であるとことに自身は気付いていたのでしょう。

mysnghr (2)
長治自刃の地、長原の海岸からは淡路と畿内が遠くに望めます。

偉大な三好家と偉大な父の後を託されるには若過ぎて重過ぎたかもしれません。
それでもなんとかして当主としての存在感を示さずにはいられなかった。
数々の暴挙はそんな長治と彼をとりまく環境との歪みから生まれたものなのでしょう。

うまく申せませんが、長治を「暴君主」と言い放つことはできません。

三好長治終焉の地でもって今回の久太郎の阿波の城+マラソンも閉じることになります。
駆け足で観て回った所ばかりなので内容の薄さは否めません。
でも阿波の戦国時代に触れて自分なりに感じた想いが沢山ありました。

素晴しい石垣と水堀を湛えた徳島城、沈みゆく夕日が綺麗だった日和佐城、
「四国の蓋」要衝・白地城、珍しい二重横堀の重清城、争奪の舞台となった脇城・・、
なかなかの存在感・四国の模擬天守、川島城、撫養城・・。

等々、まだまだ見学した城はありましたが、とりあえずここまでとします。
徳島県でお世話になった方々と数々の史跡には心から感謝いたします。
また機会がありましたら行きたいな・・、思いをよせてさようならです。

・・そして、コロナウィルスの脅威が早く終息することを願ってやみません。


㋹は三好長治終焉の地を示します。
豊岡神社の南、招魂社の松の根本に説明版があります。

阿波 岩倉城 🏯三好康長親子の本拠地なのだか遺構が遺憾・・

阿波 岩倉城 (徳島県美馬市脇町西田上・丹波の鼻)
三好徳太郎康俊の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑨】

さて2月に徳島県で開催されたマラソン大会参加+の城めぐり。
阿波を代表する武将にまつわる城をごく簡潔に紹介していく回顧録です。
・・といっても知名度的にはあまり知られていない武将たちかもしれません。

しかしもしですよ・・、もしもの話ですが・・。
大河ドラマで取り上げられることになでもれば必ず登場する(はずの)武将ばかりです。
でも四国勢は長宗我部にせよ三好にせよ末路が切ないからなぁ・・。ないかな・・。

と思いながらも今回は(も)三好武将・三好康俊の居城、岩倉城の訪問記です。
康俊は三好康長(咲岩又は笑岩)の嫡男にして岩倉城の城主でした。
父・康長が河内高屋城にて畿内経営に向かったので城代として預る形になります。

aiwkrj (3)奥の高い山かと思いきやその手前丘陵上での岩倉城遠望。

天正3年(1575)土佐を統一した長宗我部氏が阿波国への侵攻を開始します。
康俊はこれに対抗するものの矢野国村らを脇城外で殺害して降伏します。
しかし天正9年(1581)阿波国奪回を狙う父・康長の勧めに従い織田氏に帰属します。

aiwkrj (7)
高速道路の下を潜ってすぐ側面まで車で行けるのは有難し。

aiwkrj (1)北側の尾根を大きく遮断する堀切がまず目に入ります。

幅は約8メートル、深さ6メートルほどでしょうか。
箱堀となっていますがその先の尾根は土地改良を受け現状と留めていません。
主郭部ではここが唯一といってもいい遺構となります。

aiwkrj (2)
主郭部から見下ろした大堀切。

aiwkrj (4)遺構が確認できるのは現在ここ本丸のみ。

説明版にもあるように地形改変を受け本来の城の姿はほぼ失われました。
かつては周辺の台地部一帯に六坊からなる構成を誇った山城だったようです。
この本丸でさえ南部分は消失している状態です。

aiwkrj (6)
重機で荒らされている様子の主郭部にがっがり・・。

露骨に残っているキャタピラのあと・・。なぎ倒された樹木・・。
泥が跳ね返った五輪塔・・。重機で削られた切岸・・。
無残です、これがあの三好康長親子居城の今の姿なのか・・。

何が目的かは存じません。しかしちょっと酷いなという残念な気持ちになりました。
今回の阿波の城記事は自分の心に強く印象に残った城を取り上げています。
怖れながらこの岩倉城はよろしくないイメージでの印象に残った城、という事です。

aiwkrj (5)
三好徳太郎康俊三好山城守康長らの五輪塔。

もし公園化する整備途中という前提なら致し方ありません。
しかし周囲の現状からしておよそ史跡としての扱いを受けているように感じられません。
せめて五輪塔はもう少し手厚くしていただきたいもの・・。

天正10年(1582)になって信長は長宗我部氏と断交。
神戸信孝を総大将とした四国遠征軍の先陣として父・康長が阿波に先行します。
康俊も岩倉城でこれに呼応しますが、ここで本能寺の変が発生します。

その後中富川の戦いで十河存保を破った長宗我部元親が迫ります。
勢いで阿波の城を次々に攻略、やがて岩倉城も長宗我部勢に囲まれます。
康俊はよく守り20日間持ちこたえますがついに開城し降伏しました。

不安定な三好政権にあって勢いづく織田氏と長宗我部氏。
その互いの間にあり、さらに遠い畿内の父・康長の去就にも気を配る康俊の立場。
苦境続き、なんとも身動きがとれない中での岩倉城預かりだったように感じました。


㋹は岩倉城本丸を指します。
徳島自動車道を一度東からくぐって北側からアプローチできます。

阿波 矢野城 🏯日本で最初?戦場のメリークリスマス

阿波 矢野城 (徳島県徳島市国府町矢野・城山神社)
矢野駿河守国村の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑧】

どこにも行けないG.Wはもっぱら家の用事とジオラマ模型に勤しんでおります。
両方ともホームセンター・ツールコーナーにお世話なしでは成り行きません。
しかしそのホームセンターは人でごった返し入場規制が・・。

「不要不急の用事を控えましょう」って何なんでしょうね、・・自分も含め・・。

さて2月に徳島県で開催されたマラソン大会参加+の城めぐり。
その中でも強く心に残った城をごく簡潔に紹介していく回顧録です。
・・一体いつまで続くのか?。・・阿波の記事もそうですがコロナもね・・。

yanojt (9)矢野城を徳島考古資料館より遠望してみます。

さて今回も阿波の名将ゆかりの居城を訪ね歩いてみました。
今回は三好氏の被官で矢野氏の居城・矢野城です。
戦国期の城主は矢野駿河守国村とされています。

yanojt (10)
駐車場は考古資料館をお借りしました(礼)。

yanojt (8)
主郭へは歩いて2分。城主を祀った城山神社が鎮座しています。

三好義賢の重臣、矢野駿河守国村は義賢戦死後、幼君・長治を支えます。
天正5年(1577)三好長治が自刃すると国村は長治を攻めた伊沢頼俊を討ちとります。
そして十河家を継いでいた長治の弟・十河存保を勝瑞城に迎えます。

yanojt (2)主郭部を西から南に取り巻く横堀が明瞭に残っています。

西の尾根を堀切り、そのまま南側へ横堀状に伸ばしています。
主郭ぶは削平が曖昧ですが後世の畑地の削土の影響かもしれません。
城山神社の境内にはいろいろな石碑が立っていて興味深いです。

yanojt (4)まずは城址石碑、城歴が掘り込まれた素晴らしい石碑です。

yanojt (3)
同じように見えますがこちらは「農兵活躍史」の石碑。

三好長慶とそれを支えた弟の義賢・冬康・一存を称えます。
そしてそれに付き従った阿波の国衆や土豪の存在も大きかったのです。
篠原氏や赤澤氏、そして矢野氏らもそれに従った被官達です。

yanojt (5)そして「室町幕府第十四代将軍擁立」の石碑。

13代将軍・義輝が弑逆されたのち平島公方の子・足利義栄が擁立されます。
これを実現させた立役者の裏側に篠原長房や矢野氏らの尽力があったと伝わります。
もっとも義栄は将軍宣下から半年後、患っていた腫物が悪化して病死します。

yanojt (6)注目は「日本最初のクリスマス」の碑です。

「永禄八年(1565)、昨日まで友軍であった三好義継松永久秀堺で敵対した。
宣教師ルイス・フロイスの呼びかけで戦いを中止してクリスマスを祝った。
畿内にキリスト教が広く布教される契機となる」、と書かれています。

実際は久秀自身は熱心な法華宗の信徒だったといわれます。
宗教としてのキリスト教よりも西洋の知識や技術、文化や思想・・。
そういった背景にとても興味があったのではないでしょうか。

yanojt (1)
三好一族の 武将の夢か 苔むして 矢野城山に 秋風ぞ立つ

天正7年(1579)三好康長の嫡男で岩倉城主・三好康俊長宗我部元親に降伏。
この時、康俊は三好方の武将に土佐へ攻め入る為に参陣をするように命じます。
・・しかし、これは謀略でした。

これに従った矢野国村らは急遽軍勢を整えて岩倉城へ向かいました。
そこで脇城などから打って出た土佐方の軍勢に襲われ矢野国村は討死します。
そして矢野伯耆守虎村矢野備後守は天正10年(1582)中富川の戦いで戦死しました。

yanojt (7)
矢野城からの見渡す阿波にやがて来る春。

阿波における三好氏の盤石さはこういった国衆らの結束によるものでした。
篠原長房の死後三好氏に対立する勢力が現れその体制は崩れ始めます。
本能寺の変を機に長宗我部元親の大軍が押し寄せ国衆同士の繋がりも崩壊していきます。


㋹は矢野城本丸です。城山神社が祀られています。

阿波 松永城 🏯松永久秀公出自ゆかりの地

阿波 松永城 (徳島県阿波市市場町犬墓)
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑦】
【松永弾正久秀殿に逢いたくて・・その④】

何やらやたら副題がついております・・。
久方振りのこの「松永公」シリーズ、全5回ほどのゲリラ記事です。
大和信貴山城大和多聞山城摂津滝山城に続く今回が4回目です。

大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さん演じる松永久秀公。
ダークなイメージの中にもポップさを織り交ぜる狡猾さに注目ですね。
これは従来の久秀像が大きく変化してきている表れでもあると思います。

さて今回はその松永久秀公の出生地(の一つ)とされる松永城を訪問しました。

matunagass (1)現在民家の道路向きに「史跡 松永城」の碑があるだけ。

松永城は松永久秀の誕生地とも伝えられる城です。
別名を犬墓城(いぬのはかじょう)とも呼ばれています。
民家の敷地になっているようですので外からチラ見する程度の訪問です。

大部分が民家と田畑となっている様子なので遺構は不明なよう。
個人宅様の住居などが映り込むため写真掲載は控えさせていただきます。
東に張り出した丘の上の館城のような地形になっています。

加賀国出身の松永氏が阿波に来て当地に城を構えたという由緒書に基づきます。
久秀没後にその子孫が当地に戻り徳島藩主・蜂須賀氏に仕えたといいます。
その点、この地域の松永姓は久秀一族の末裔である可能姓が高いと思われます。

matunagass (2)
城址石碑の裏側をのぞかせていただきますと・・。

「松永城 天正5年(1577)落城犬墓村」 
「主将 松永弾正忠久秀 番兵を置くと(城跡記)」 とあります。
天正5年というと久秀が信貴山城にて自害した年ですね。

他に久秀の出自については・・
山城国西岡の商人説摂津国五百住(よずみ)の百姓説などがあります。
近年の研究では久秀は摂津国五百住の土豪出身との説が強まっています。
(参考文献:『松永久秀と下剋上』 天野忠幸著 平凡社刊 2018より)

明智光秀公も美濃国に複数の出生地が伝わるのと同様、ミステリアスな史跡です。
今回は松永久秀公との何かしらの関係はあるものかと思い訪ねました。
いずれにせよ、久秀が名もない所から頭角を現し戦国の世を駆け上っていった・・。

そう感じることができただけでも訪問した甲斐があったというものでした。


㋹は松永城の城址石碑の位置を示します。
個人的には北にそびえる「城王山」という山が気になります・・。
そうです、日開谷城という城が伝わっています。・・もちろん未登頂です。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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