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2018長浜市あざいお市マラソンへの出陣準備

2018長浜市あざいお市マラソンへの準備

来たる10月7日、滋賀県にて「2018長浜市あざいお市マラソン」に出場します。
いつかは走りたい、と願っていた大会です。
ラン友・Y吉さんからお誘いをいただいたときは、すごくうれしかったですね。

azaisoza (1)収穫の秋がやってまいりました。

あざいお市マラソンは2010年~2014年まで5年連続で全国ランニング100撰に選ばれています。
そして2016年と2017年には全国ランニング100選にも選ばれているんです。

ここは浅井長政と織田信長が姉川を挟んで激戦を繰り広げた地。
そしてお市の方と浅井三姉妹が共に過ごしたゆかりの地でもあります。
他にも徳川家康、豊臣秀吉、柴田勝家など、数多の武将が駆け抜けた交差地。

・・身が引き締まる思いです!

azaiann.jpg

開催主旨は・・
「マラソンを愛し、自己レベルの向上を目的に練習に励んでおられる
モラルとプライドを持ったランナーを歓迎する大会です。」、だそうです。

うん!、あるべき姿だと思います!
(モラルとプライドは・・自信なし・・)

oichimap2.png
コース図より、マラソンのコースの高低差に大きな特徴があるのが分かります。

前半はずっと上りが続き、後半はひたすら下るので、
前半7kmまでが勝負!、そこまで辛抱強く走れれば・・、
精神的にはかなり楽なレース展開になると思います。(あくまでイメージです・・)

普段の練習でも長い上りから入っていくトレーニングをしてきました。
同時にスピードと筋持久力を維持し続けるパートメニューをこなしてきました。
いい仕上がりでレースに臨めそうです。

azaisoza (3)
雨上がりの練習中、ナナフシくんと会えたのも久しぶり!(どこ登ってんだか・・)

目標は「怪我をしない、無理しない」、・・でも・・。
100分以内で爽やかに走り切りたい!と企んでます(^∀^*)。
セカンド・ベスト狙い、といったところでしょうか。

当日はたくさんのサムライランナーさん方と共に走ることが楽しみです!

三河 波入江城 🏯かつては海に面した丘城だったとか

三河 波入江城 (愛知県豊橋市老津町波入江)

お盆休みにちょいちょい奥方実家の付近の城を徘徊しておりまして・・。
そういえばあんな城址やこんな城址もあったな、という回想録です。
(暑い中を走り回ったので所々で記憶が飛んでいるかも・・)

前回の高縄城からすぐ近くの波入江城を訪問しました。
波入江城はその名の通りかつては三河湾に面していた入江に面した城であったようです。
戸田氏の支城のひとつであったようですが、具体的な城主や機能した年代などは不明です。

namiiei (6)祥雲寺一帯がかつての主郭部。

そう言われると周囲は湿地帯となっていてかつての入江を想像できそうです。
たくましい想像力を働かせれば参道が土橋、その周囲は波が打ち寄せる堀・・。
・・って、いくらなんでも妄想の世界ですかね。

namiiei (5)

namiiei (3)
温暖な気候である渥美半島ならではの風景です。

namiiei (1)波入江城、毛筆手書の城址板を発見いたしましたv(o゚∀゚o)v

恐らく住職様のお計らいでしょうが、山門の扉の裏側にあります。
普通に見学していたら見落とすこと間違いありません・・。
しかも消えかかっていくのも時間の問題かと。

他にも手書きによる有難いお説教がいろいろと掲げられてございました。
namiiei (4)
文字を解読しながら、なんとか解釈したいのですが一部無理でした・・。

立地状況からみると三河湾を押さえ、田原城、高縄城への繋ぎの城とも解釈できます。
高縄城からは1500m、距離的には出城であったとの見方もできましょう。



Ⓢは祥雲寺参拝者用駐車場です。
Ⓖは祥雲寺山門と本堂。山門の扉裏に毛筆手書きの城址板?あり・・です。


三河 高縄城(大津城) 🏯戸田氏との関連深い城

三河 高縄城(大津城) (愛知県豊橋市老津町西高縄)

「不要不急の外出を控える夏」、・・・。
かつてそんな夏はなかったように記憶しております。
もちろん、久太郎にとっては城巡りを控える夏はございません。

皆様におかれましては残暑の候、心からお見舞い申し上げます。

三河の畔田城に続いて訪れた城、高縄城を訪問しました。

takanawa (1)高縄城は渥美の雄・戸田宗光の田原城を築いて移るまでの居城でした。
その後戸田忠次が徳川家康の旗下として緒戦で活躍、大津城と付近に2,300石を与えられました。

当初、三河一向一揆では一揆衆としてこれに応じた忠次でありましたが・・。
戸田氏は元々徳川氏とは縁戚関係があったため、内通を疑う者もありました。
この風潮に対し、忠次は徳川方に転じ、徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わわりました。

その後は家康の下で主だった戦いにて戦功を重ねていきます。
「徳川二十将」の一人として挙げられていますが何故か十六神将からは外れていますね。
(徳川二十八神将にもその名は見えず・・??・・)

そして徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜ります。
文禄・慶長の役の折には、忠次は老齢の身ながら家康に「朝鮮出陣あらば推して従軍せん」と懇願。
これを聞いた豊臣秀吉は、忠次をして「壮者の亀鑑」と称賛したといいいます。

takanawa (3)
現在、高縄城は大部分が学校や畑地に変わり、堀と土塁の一部が残っています。

夏休みに訪れたため学校はお休み、不法侵入はできませんので裏側から見学しました。
土塁の一部は確認できましたが、堀の一部はブッシュでよくわかりませんでした・・。
よって城址碑のみの写真です。

吉田城と田原の城のほぼ中間点に当たる重要な城であったと思われます。



美濃 串原大平城 🏯遠山七家、串原遠山氏の拠点

美濃 大平城 (岐阜県恵那市串原大平・城山)

いよいよ山城シーズンの到来がやってきました。
ややフライング気味感は否めませんが・・。
8月といえど平野部と違って山間部ははや秋模様。

夏の山城の大敵と言えば、ヘビ、ハチ、クモの巣、等ですが
今年の夏は最大の敵である、蚊が少ない、のが特徴です。
なんでも気温35℃の酷暑日が続くと繁殖力が鈍るみたいですね。

ならば頃合いよし!、ということで、いざ出発です。
久しぶりに美濃の山城に戻ってきました。
今回、スタートダッシュを飾るは旧串原村の大平城です。

kusiootaira (20)夏休み中の串原小学校の丘から望む串原大平城の城山。

今回は城山の東側から登るルートで登城です。(今回で3度目の登城に)
kusiootaira (1)

城は指定史跡もなく、これといった登山道もありません。
広い路肩に車を停めての登城です。
自分はご近所の方に一言お断りをいただき、置かせていただきました。

kusiootaira (18)

消えかかった峠道の目印がこの祠。
ま、ここから直登しても良いのですが・・。
写真のルートで東側の堀切(峠堀?)からの見学です。

kusiootaira (17)
東端を仕切る堀切は、或いは峠道による掘割かもしれません。

しかしながら堀切の内側(城内側)には土塁がみられるので
かつての堀切が峠道に利用された、と解釈するほうが自然です。
ここから西に向かって登っていきます。

kusiootaira (16)
主郭部最高所の南には迫力の巨石が斜面を覆います。

kusiootaira (3)自然石が織りなす天然の石垣も壮観。

こういった巨石を城郭に利用する、という一面は遠山氏はお好きだったのでしょうか?
苗木城岩村城もそうですし、遠山氏萌芽期の広恵寺城なんかも同様ですね。
麓側から仰ぎ見れば難攻不落の城にも見えてしまいそうです。

kusiootaira (7)
主郭部の一段下には通称:「千畳敷」と呼ばれる曲輪が延びています。

kusiootaira (11)
千畳敷から北に堀切を隔てて「雪隠屋敷(せっちんやしき)」を見下ろします。

kusiootaira (9)
千畳敷の南直下には堀切が用意されています。

kusiootaira (2)
主郭部中央の南に落とされた竪堀。

kusiootaira (5)
最頂部に立てられている石碑。

この石碑は直接、城郭に関わるものではないらしいです。
地元の方との聞き取りでは大正時代の山の持ち主と宗教絡みのものだそうで。
「串原大平城跡」の石碑、なんてのがあればなぁ・・。

kusiootaira (6)
傍らには月待供養塔もりました。

kusiootaira (4)
千畳敷から見上げる最頂部。

遠山氏は、本家の岩村遠山氏から各荘地に分散し、居城ごとに分かれて土着します。
「遠山三家(三頭とも)」が岩村、苗木、明知と呼ばれているのが知られています。
そして「遠山七家」というと、岩村、苗木、明知、飯羽間、串原、阿寺、阿木を指すようです。

諸書によってまちまちですが、凡そはこのように呼ばれるようになりました。
このうち、串原城に拠ったのが串原遠山氏です。
(※串原城とは大平城を指すのか、同地内の柿畑城を指すのかは不明)

戦国期の串原城主と思われる人物として遠山右馬助景男と与五郎経景が伝わります。
(※右馬助の諱の「景男」については諸説あり、今回は串原村誌を参照しました)

元亀3年(1572)12月には、遠山右馬助景男らは武田氏の侵攻に対抗し、上村で合戦。
明知遠山氏の景行らと共に上村口で武田家重臣の秋山虎繁らと戦って討ち死にしました。
(あの名将と渡り合ったのですね~)

遠山与五郎経景は明知城主・遠山利景の客分となり各地で戦功を重ねます。
関ケ原の戦いの折には明知城奪還に活躍、旗本・明知遠山氏の再興に貢献しました。

kusiootaira (15)
主郭部北側の切岸はほぼ垂直!這い上がれません!

kusiootaira (10)城域の西を仕切る幅約9メートルの大堀切。

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雪隠屋敷とを隔てる急峻な大堀切。

このあたりの遺構はいかに自然地形に頼った城郭といえども
しっかりと作り込まれているように感じます。
大平城の見所、そして串原遠山氏の城郭理念?を感じます。

以上、ざっと串原大平城を見てみました。
大平城は遠山氏時代の生粋の城郭の姿を残しているようです。
遠山氏城郭の特長やルーツが伝わってきました。

下に図面を掲載いたします。

kusiharaoodainbz.jpg

あと、こんなところにも寄ってきました。

城山の滝 (大平城の下の谷)

大平城の尾根より西、直下の谷の名瀑です。ちょっと寄ってみましょう。
kusiootaira (12)

kusiootaira (13)落差こそないものの、周囲の景観も相成って素晴しい!

ちょとした路肩スペースに駐車して、道路脇から手軽に行けます。(3分くらい・・)
ちょっと、隠れ家的な滝ですが、大平城を見学した後に行けばその魅力も倍増です!
それにしても、・・す、・・涼しい゚。*(*´∀`*)*。゚

マイナスイオンっていうんですか?夏は滝と城もいいですな~。



Ⓢは車両路肩駐車地点。
Ⓖは大平城主郭部。
☑には城山の滝の位置を示しておきます。

入鹿池 入鹿六人衆の功績と入鹿切れの苦難を乗り越えて

入鹿池 (愛知県犬山市池野地区) 
形式:アースダム(土堰堤)

2018年奥方と巡る夏休みダムめぐり紀行 その② 

お盆が過ぎ、一時的に涼しくなったのを「残暑」と呼ぶにはあまりにも甘い考えでありまして。
ツイン並走台風、局地的大雨、ぶり返す猛暑・・。未だ酷暑の中の日本列島です。

そんな中でも確実に秋の気配を感じる信号を感じます。
気の早いツクツクボウシ、空高い夕暮れ、静寂に響く虫の音、・・・。
そしてダム湖に揺れるススキの穂先よ・・

ということで奥方と休みを合わせて自宅からほど近い入鹿池へと行ってきました。
今年からダムカードが配布されるようになったと聞き及んだからです。
土・日の配布がない、といことで平日にいかないといけないようです。

iruka (5)農業用の人工ため池としては国内有数の規模を誇る入鹿池。
(で、でも、今日は水、少ないな・・(´・_・`))

この場合、先にダムカードを貰いに行くのが賢きか。
iruka (1)
明治村の一部かと錯覚するほどの近代風建物です。

こちら入鹿用水土地改良区事務所でダムカードがいただけます。
配布時間は平日の午前9時~午後4時(土・日・祝、年末年始は配布していません)
配布時に受付にて簡単な記帳をします。これでOK!

航空写真図柄のカードですo(^▽^)o。
itukalado.jpg

iruka (2)入鹿池の集水区域は北尾張平野広くを潤しています。

寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の発起人たちによるアイデアでした。
諸流が流れ込む谷間で1つにまとまり、五条川となって南に流れる「銚子の口」と呼ばれる所に着目。
尾張藩に開発届を出し、認可されました。
(当時の犬山藩主・成瀬正虎は尾張藩の付家老でもありました)

iruka (6)
当地には元々入鹿村がありましたが住民を移住させ着工、寛永10年(1633年)に完成しました。

尾張藩は入鹿村の村民に対し、家長(間口)一間につき金一両を払い、転居を促します。
立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔が充てられました。

また、尾張藩は新田開発を促すため、「給人自分起新田」という制度を認めました。
給人(支給された土地を耕す人)は、土地を開発すれば、その土地の所有を認めるというもの。
但し、開発願を出した後2年以内に開発の端緒を開かなければ、その土地は没収されます。
そしてその後は二度と許可されない、という厳しい掟でもありました。

堤の上をいろいろ散策してみます。
iruka (7)

「棚築(たなずき)工法」と呼ばれる寛永期の技術が伝えられています。
当時の堤防造り名人、河内国から派遣された甚九郎が用いた工法です。
詳しくはダムカードの裏面を見てのお楽しみです。

百間堤(ひゃっけんづつみ)というそうです。甚九郎の功績を称え「河内屋堤」とも呼ばれます。
iruka (8)
真新しい、かんがい施設遺産記念碑。

完成より235年、それまで一度も大きな災害を起こさなかった入鹿池でしたが、
明治元年(慶応4年、1868年)の大雨で百間堤が決壊します。
入鹿池一杯に貯まった水は濁流となり下流の村々を襲い、多大な被害を出しました。

これが「入鹿切れ」と呼ばれる、悪夢の災害です。
被害については死者は1000人近くで、負傷者も1500人にのぼりました。
建物への被害 は甚大で流失家屋で1000戸、浸水家屋12000戸に及びました。

iruka (4)入鹿池の防災ダム事業計画は1991年(平成3年)工事が完了しました。
(この場所は入鹿用水土地改良区事務所のすぐ北です)

iruka (10)

iruka (12)
自由越流式の洪水吐。水がなければ洪水吐の中を歩いて見学もできます。

iruka (11)
明治時代風のデザインを取り入れたという取水塔がなかなかいいです。

散策後は見晴茶屋さんで五平餅とソフトクリームをご馳走になりました。
iruka (3)

店長のおじいちゃんから、いろいろ入鹿池の昔話を教えていただきました。
若い頃の苦労話から人生論まで(笑)・・。ためになって楽しかったです。
客が奥方と2人しかいなかったので格好の話し相手といったところかな・・。ハハ・・。

iruka (9)

池畔には博物館明治村がありますし、池ではボートでワカサギ釣りも楽しめる観光地です。
ブラックバスは大物が釣れることでも有名で、やってみたくなりましたね~。
少しの秋を感じながら、のんびりとダム池散策。・・いいものです。



Ⓖにダムカード配布場の入鹿用水土地改良区事務所を示しておきます。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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