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三河 高縄城(大津城) 🏯戸田氏との関連深い城

三河 高縄城(大津城) (愛知県豊橋市老津町西高縄)

「不要不急の外出を控える夏」、・・・。
かつてそんな夏はなかったように記憶しております。
もちろん、久太郎にとっては城巡りを控える夏はございません。

皆様におかれましては残暑の候、心からお見舞い申し上げます。

三河の畔田城に続いて訪れた城、高縄城を訪問しました。

takanawa (1)高縄城は渥美の雄・戸田宗光の田原城を築いて移るまでの居城でした。
その後戸田忠次が徳川家康の旗下として緒戦で活躍、大津城と付近に2,300石を与えられました。

当初、三河一向一揆では一揆衆としてこれに応じた忠次でありましたが・・。
戸田氏は元々徳川氏とは縁戚関係があったため、内通を疑う者もありました。
この風潮に対し、忠次は徳川方に転じ、徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わわりました。

その後は家康の下で主だった戦いにて戦功を重ねていきます。
「徳川二十将」の一人として挙げられていますが何故か十六神将からは外れていますね。
(徳川二十八神将にもその名は見えず・・??・・)

そして徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜ります。
文禄・慶長の役の折には、忠次は老齢の身ながら家康に「朝鮮出陣あらば推して従軍せん」と懇願。
これを聞いた豊臣秀吉は、忠次をして「壮者の亀鑑」と称賛したといいいます。

takanawa (3)
現在、高縄城は大部分が学校や畑地に変わり、堀と土塁の一部が残っています。

夏休みに訪れたため学校はお休み、不法侵入はできませんので裏側から見学しました。
土塁の一部は確認できましたが、堀の一部はブッシュでよくわかりませんでした・・。
よって城址碑のみの写真です。

吉田城と田原の城のほぼ中間点に当たる重要な城であったと思われます。



美濃 串原大平城 🏯遠山七家、串原遠山氏の拠点

美濃 大平城 (岐阜県恵那市串原大平・城山)

いよいよ山城シーズンの到来がやってきました。
ややフライング気味感は否めませんが・・。
8月といえど平野部と違って山間部ははや秋模様。

夏の山城の大敵と言えば、ヘビ、ハチ、クモの巣、等ですが
今年の夏は最大の敵である、蚊が少ない、のが特徴です。
なんでも気温35℃の酷暑日が続くと繁殖力が鈍るみたいですね。

ならば頃合いよし!、ということで、いざ出発です。
久しぶりに美濃の山城に戻ってきました。
今回、スタートダッシュを飾るは旧串原村の大平城です。

kusiootaira (20)夏休み中の串原小学校の丘から望む串原大平城の城山。

今回は城山の東側から登るルートで登城です。(今回で3度目の登城に)
kusiootaira (1)

城は指定史跡もなく、これといった登山道もありません。
広い路肩に車を停めての登城です。
自分はご近所の方に一言お断りをいただき、置かせていただきました。

kusiootaira (18)

消えかかった峠道の目印がこの祠。
ま、ここから直登しても良いのですが・・。
写真のルートで東側の堀切(峠堀?)からの見学です。

kusiootaira (17)
東端を仕切る堀切は、或いは峠道による掘割かもしれません。

しかしながら堀切の内側(城内側)には土塁がみられるので
かつての堀切が峠道に利用された、と解釈するほうが自然です。
ここから西に向かって登っていきます。

kusiootaira (16)
主郭部最高所の南には迫力の巨石が斜面を覆います。

kusiootaira (3)自然石が織りなす天然の石垣も壮観。

こういった巨石を城郭に利用する、という一面は遠山氏はお好きだったのでしょうか?
苗木城岩村城もそうですし、遠山氏萌芽期の広恵寺城なんかも同様ですね。
麓側から仰ぎ見れば難攻不落の城にも見えてしまいそうです。

kusiootaira (7)
主郭部の一段下には通称:「千畳敷」と呼ばれる曲輪が延びています。

kusiootaira (11)
千畳敷から北に堀切を隔てて「雪隠屋敷(せっちんやしき)」を見下ろします。

kusiootaira (9)
千畳敷の南直下には堀切が用意されています。

kusiootaira (2)
主郭部中央の南に落とされた竪堀。

kusiootaira (5)
最頂部に立てられている石碑。

この石碑は直接、城郭に関わるものではないらしいです。
地元の方との聞き取りでは大正時代の山の持ち主と宗教絡みのものだそうで。
「串原大平城跡」の石碑、なんてのがあればなぁ・・。

kusiootaira (6)
傍らには月待供養塔もりました。

kusiootaira (4)
千畳敷から見上げる最頂部。

遠山氏は、本家の岩村遠山氏から各荘地に分散し、居城ごとに分かれて土着します。
「遠山三家(三頭とも)」が岩村、苗木、明知と呼ばれているのが知られています。
そして「遠山七家」というと、岩村、苗木、明知、飯羽間、串原、阿寺、阿木を指すようです。

諸書によってまちまちですが、凡そはこのように呼ばれるようになりました。
このうち、串原城に拠ったのが串原遠山氏です。
(※串原城とは大平城を指すのか、同地内の柿畑城を指すのかは不明)

戦国期の串原城主と思われる人物として遠山右馬助景男と与五郎経景が伝わります。
(※右馬助の諱の「景男」については諸説あり、今回は串原村誌を参照しました)

元亀3年(1572)12月には、遠山右馬助景男らは武田氏の侵攻に対抗し、上村で合戦。
明知遠山氏の景行らと共に上村口で武田家重臣の秋山虎繁らと戦って討ち死にしました。
(あの名将と渡り合ったのですね~)

遠山与五郎経景は明知城主・遠山利景の客分となり各地で戦功を重ねます。
関ケ原の戦いの折には明知城奪還に活躍、旗本・明知遠山氏の再興に貢献しました。

kusiootaira (15)
主郭部北側の切岸はほぼ垂直!這い上がれません!

kusiootaira (10)城域の西を仕切る幅約9メートルの大堀切。

kusiootaira (14)
雪隠屋敷とを隔てる急峻な大堀切。

このあたりの遺構はいかに自然地形に頼った城郭といえども
しっかりと作り込まれているように感じます。
大平城の見所、そして串原遠山氏の城郭理念?を感じます。

以上、ざっと串原大平城を見てみました。
大平城は遠山氏時代の生粋の城郭の姿を残しているようです。
遠山氏城郭の特長やルーツが伝わってきました。

下に図面を掲載いたします。

kusiharaoodainbz.jpg

あと、こんなところにも寄ってきました。

城山の滝 (大平城の下の谷)

大平城の尾根より西、直下の谷の名瀑です。ちょっと寄ってみましょう。
kusiootaira (12)

kusiootaira (13)落差こそないものの、周囲の景観も相成って素晴しい!

ちょとした路肩スペースに駐車して、道路脇から手軽に行けます。(3分くらい・・)
ちょっと、隠れ家的な滝ですが、大平城を見学した後に行けばその魅力も倍増です!
それにしても、・・す、・・涼しい゚。*(*´∀`*)*。゚

マイナスイオンっていうんですか?夏は滝と城もいいですな~。



Ⓢは車両路肩駐車地点。
Ⓖは大平城主郭部。
☑には城山の滝の位置を示しておきます。

入鹿池 入鹿六人衆の功績と入鹿切れの苦難を乗り越えて

入鹿池 (愛知県犬山市池野地区) 
形式:アースダム(土堰堤)

2018年奥方と巡る夏休みダムめぐり紀行 その② 

お盆が過ぎ、一時的に涼しくなったのを「残暑」と呼ぶにはあまりにも甘い考えでありまして。
ツイン並走台風、局地的大雨、ぶり返す猛暑・・。未だ酷暑の中の日本列島です。

そんな中でも確実に秋の気配を感じる信号を感じます。
気の早いツクツクボウシ、空高い夕暮れ、静寂に響く虫の音、・・・。
そしてダム湖に揺れるススキの穂先よ・・

ということで奥方と休みを合わせて自宅からほど近い入鹿池へと行ってきました。
今年からダムカードが配布されるようになったと聞き及んだからです。
土・日の配布がない、といことで平日にいかないといけないようです。

iruka (5)農業用の人工ため池としては国内有数の規模を誇る入鹿池。
(で、でも、今日は水、少ないな・・(´・_・`))

この場合、先にダムカードを貰いに行くのが賢きか。
iruka (1)
明治村の一部かと錯覚するほどの近代風建物です。

こちら入鹿用水土地改良区事務所でダムカードがいただけます。
配布時間は平日の午前9時~午後4時(土・日・祝、年末年始は配布していません)
配布時に受付にて簡単な記帳をします。これでOK!

航空写真図柄のカードですo(^▽^)o。
itukalado.jpg

iruka (2)入鹿池の集水区域は北尾張平野広くを潤しています。

寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の発起人たちによるアイデアでした。
諸流が流れ込む谷間で1つにまとまり、五条川となって南に流れる「銚子の口」と呼ばれる所に着目。
尾張藩に開発届を出し、認可されました。
(当時の犬山藩主・成瀬正虎は尾張藩の付家老でもありました)

iruka (6)
当地には元々入鹿村がありましたが住民を移住させ着工、寛永10年(1633年)に完成しました。

尾張藩は入鹿村の村民に対し、家長(間口)一間につき金一両を払い、転居を促します。
立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔が充てられました。

また、尾張藩は新田開発を促すため、「給人自分起新田」という制度を認めました。
給人(支給された土地を耕す人)は、土地を開発すれば、その土地の所有を認めるというもの。
但し、開発願を出した後2年以内に開発の端緒を開かなければ、その土地は没収されます。
そしてその後は二度と許可されない、という厳しい掟でもありました。

堤の上をいろいろ散策してみます。
iruka (7)

「棚築(たなずき)工法」と呼ばれる寛永期の技術が伝えられています。
当時の堤防造り名人、河内国から派遣された甚九郎が用いた工法です。
詳しくはダムカードの裏面を見てのお楽しみです。

百間堤(ひゃっけんづつみ)というそうです。甚九郎の功績を称え「河内屋堤」とも呼ばれます。
iruka (8)
真新しい、かんがい施設遺産記念碑。

完成より235年、それまで一度も大きな災害を起こさなかった入鹿池でしたが、
明治元年(慶応4年、1868年)の大雨で百間堤が決壊します。
入鹿池一杯に貯まった水は濁流となり下流の村々を襲い、多大な被害を出しました。

これが「入鹿切れ」と呼ばれる、悪夢の災害です。
被害については死者は1000人近くで、負傷者も1500人にのぼりました。
建物への被害 は甚大で流失家屋で1000戸、浸水家屋12000戸に及びました。

iruka (4)入鹿池の防災ダム事業計画は1991年(平成3年)工事が完了しました。
(この場所は入鹿用水土地改良区事務所のすぐ北です)

iruka (10)

iruka (12)
自由越流式の洪水吐。水がなければ洪水吐の中を歩いて見学もできます。

iruka (11)
明治時代風のデザインを取り入れたという取水塔がなかなかいいです。

散策後は見晴茶屋さんで五平餅とソフトクリームをご馳走になりました。
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店長のおじいちゃんから、いろいろ入鹿池の昔話を教えていただきました。
若い頃の苦労話から人生論まで(笑)・・。ためになって楽しかったです。
客が奥方と2人しかいなかったので格好の話し相手といったところかな・・。ハハ・・。

iruka (9)

池畔には博物館明治村がありますし、池ではボートでワカサギ釣りも楽しめる観光地です。
ブラックバスは大物が釣れることでも有名で、やってみたくなりましたね~。
少しの秋を感じながら、のんびりとダム池散策。・・いいものです。



Ⓖにダムカード配布場の入鹿用水土地改良区事務所を示しておきます。

大和 信貴山城 🏯松永弾正久秀殿に逢いたくて・・

大和 信貴山城 (奈良県生駒郡平群町信貴山・雄嶽・雌嶽) <町指定史跡>

前回の記事では大門ダム見学とダムカード収集について綴ってみました。
大門ダムの背後は朝護孫子寺を経て信貴山城へと続いています。

今回は山城はお預け、・・そう心に決めていたのですが。
(時間的にも山城へ登るには押していましたし・・)
しかしご理解ある奥方の一言で意を決して登ることになりました!

奥方はこんなこともあろうかと、おもむろにアレを取り出します。
「シューズもちゃんと持ってきたわよ~」
・・ムム!?、準備万端ってことですか?・・マジで、素晴らしい!(感激!and 号泣!)

・・後が怖いのですが、とりあえず登城することになりました。

先ずは開運橋を渡って大門池を渡ります。
daimonnsigi (30)

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バンジージャンプ台なんかがありまして、皆さん度胸ありますね~。

daimonnsigi (32)橋上から改めて信貴山城を見上げます。(南方面から)

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待っててくだされ、松永弾正殿!

こちらの信貴山観光Ii(アイ)センターにて大門ダムカードが貰えます。
松永久秀公のジジカワイイ、キャラが目印です。
私たちが貰いに行ったときは閉店間際だったのでギリセーフでした。

daimonnsigi (4)
仁王門を見学していざ、登城です。

信貴山城巡りがメインイベントということなら、寺巡りはオープニング・アクト(前座)。
なんて言うには、大変失礼ですので、可能な限りゆっくりと散策します。
こうしてここに来れるのも奥方のお蔭なのですから、楽しもうと思いました。

こんなかわいらしい虎ちゃんがいれば・・、
daimonnsigi (9)

daimonnsigi (34)
世界一という、・・虎べこ?も吠えています。(手前に対比要員の奥方です)

信貴山は虎との縁繋がりが深いためにあちこちで虎めぐり?もできます。

なんでも・・、聖徳太子物部守屋を討伐する際にこの山に戦勝祈願されました。
すると、太子の頭上に現われた毘沙門天が必勝の秘法を授けたそうです。
奇しくも、その日は寅年、寅日、寅刻だったそうです。

ん?・・、トラ、トラ、トラ?!、・・そうです!
真珠湾攻撃の電文の発祥はここにあったのです!
日本の勝利を願って電文を「トラトラトラ」としたという、あれです!

・・誰でしょう?、あ~あのMAXのノリノリの歌ね~、なんて言ってる方は。
(「TORA TORA TORA」(トラ・トラ・トラ)は、MAXの3枚目のシングル。聴いてます。)

daimonnsigi (11)横笛を吹きながら戦陣に臨む聖徳太子像。

daimonnsigi (10)

daimonnsigi (35)
この多宝塔の裏からいよいよ城山への登山です。

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登ること15分で本丸に到着。(すみません、端折りすぎで・・)

daimonnsigi (36)
天文5年(1536)の頃に、最初に城郭として着手したのは木沢長政と伝わります。
天文11年(1542)、河内太平寺合戦で長政は討死し、信貴山城も落城した模様。
その後、永禄2年(1559)、松永久秀が大和へ入国すると、信貴山城を改修して居城としました。

daimonnsigi (15)
信貴山城は雄嶽と呼ばれる信貴山山頂と、南の雌嶽が主郭部とみられます。
そこから北へ派生した各尾根に曲輪を配し、巨大城郭を形成してます。
主郭部一帯は神社の参道やお堂等の改変をうけ、遺構がわかりづらいです。

daimonnsigi (17)空鉢堂からの眺望。今回は霞がかかってあまり視界がききませんでした。

西端部のここに空鉢護法堂(空鉢堂)の部分には四重の天守があったようです。
文献的にも初期の天守存在が指摘されていますので、当時としては最新鋭の城郭だったよう。
改変を受けた主郭部よりも遺構としての見所は松永屋敷と呼ばれる曲輪群にあります。

急ぎ足ですが、そちらに向かうこととします。

daimonnsigi (42)
松永屋敷の足下に到着です。

daimonnsigi (25)

テンポよく散策できるように周回スロープが用意されていました。
daimonnsigi (39)

daimonnsigi (40)
キャンプサイトのように手入れされた曲輪内部はとても見学しやすいです。

松永屋敷は西の谷間に面した側に土塁を設けて広い平地を連ねています。
北端は土橋状のスロープを上り、広い曲輪に至ります。その手前には虎口もみられます。

daimonnsigi (24)

daimonnsigi (19)屋敷で待っていたのは松永弾正久秀公!?ですよね?(これには奥方も大爆笑)

しかし、よくできたアイデア木造作品です。
愛嬌があり、決めポーズもカッコいいです。
思わず一緒に記念撮影をしてしまいましたo(^▽^)o。

逢いたかったです、弾正殿!

daimonnsigi (20)この長い説明文は久秀のことをよく研究した文面となっています。

松永久秀は戦国の梟雄、と呼ばれ、天下の大悪人とも呼ばれてますが・・。

主君・三好氏一族を水面下での謀略で次々と陥れた、というのも根拠はありません。
三好三人衆と共に将軍・足利義輝の暗殺に直接関与した、といのも巷説の一つ。
東大寺大仏殿を戦火に巻き込んだ、というのも確信犯と決め付けられません。
仮にそうであったとしても平安朝期の平重衡同様、故意の所業ではなかったでしょう。

久秀は後、将軍・足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻しますが、
天正元年(1573)、甲斐の武田信玄が没すると多聞山城を明け渡すことで信長に降伏します。

天正5年(1577)、久秀は本願寺攻めの加勢中、再び毛利氏・本願寺等の勢力と反信長勢力に荷担。
信長は子息・信忠や筒井順慶などを主力とする大軍で信貴山城を包囲します。
信長は久秀が所有している名器・平蜘蛛を差し出せば助命すると勧告するも久秀はこれを拒否。

久秀は平蜘蛛を粉々に叩き砕いたのち、天守に籠もって自爆して果てました。
天命に従い、思うがままに戦国を生き切った武人の一人、だったのでしょう。
さて、久秀の信貴山城、在りし日はどんな姿だったのかと想像してしまいます。

無骨な中にも近世へとつながる要素が詰まった名城であったことでしょう。

今回、お付き合いしてくれた奥方には猛烈感謝です!
少しは寂しくなった気持ち和らいだかなぁ・・。
・・夕飯はごちそうしましょうかね。



Ⓢは今回利用した有料駐車場
Ⓖは信貴山城主郭部で駐車用から朝護孫子寺を経た信貴山城へのルートの一つです。


大門ダム 歴史的遺産を受け継ぐダム 

大門ダム (奈良県生駒郡三郷町) <大和川水系実盛川支川大門川>
形式:重力式コンクリートダム

2018年奥方と巡る夏休みダムめぐり紀行 その① 

今年の夏休みは次男が大学受験を控えた夏休み、ということと・・。
長男が語学留学で夏休み中期間は海外へ飛び立って行きました。
子息たちも、皆、それぞれ夢や目標なんかを見据えて頼もしく感じる今日この頃です。

・・それに引き換え我々夫婦は相変わらずの、粛々としたいつも通りの生活です。
よく「可愛い子には旅をさせよ」と言います。・・が。
・・なんとなく取り残されたようで、今年の夏はちょっぴり寂しい気もします。

お兄ちゃん、いってらっしゃ~い!👋(無事に帰ってきてね(涙))@関西空港にて
daimonnsigi (2)

長男も、初めての海外生活です。
期待よりも不安の方が大きいと思うのですが、おくびにもだしません。
現地では言葉、文化、習慣、コミニケション、全てが別世界。
大変なことばかりかと思いますが、楽しんで欲しい、と願います。

笑顔で GOOD BYE!(^-^)/です!

さて・・。関空から長男を送り届けた後、自宅までそのまま帰るのもなんですし。
少しは奥方の気晴らしになるようなスポットにでも寄っていこうか、と思っていました。
助手席の奥方、心にぽっかり穴が開いているかと思いきや・・。

「・・で?、今日はどこの城跡に連れてかれるの??」
「‥参りました・・(´∀`*;)」
さすがに真夏・昼過ぎの山城にはとてもじゃないけど連れてはいけません。

・・ということでこんな暑い日は「ダムに限る」、という結論になりました。(クソ強引に)
daimonnsigi (28)完成してまだ5年程の新しいダム、大門ダムに到着です。

daimonnsigi (5)
上から歩いて天端も歩けます。

平安時代に水をせき止めて造られた大門池の下流に位置しています。
その意味では国内でも歴史ある堤を受け継いだダムといえましょう。
震度5弱以上の地震が発生すると崩壊する危険が高いと想定され、建造計画が立てられました。

daimonnsigi (6)
大門池の奥に聳えるは信貴山城!、・・でも、今日はお預けか?

大門ダムは洪水調節・河川維持用水を目的として建設され、2012年に竣工。
堤高35.4m、堤頂長122mの重力式コンクリートダムで、天端は開放されています。
なお、大門池の堤は、学術調査を済ませ、現在は水中に保存されているそうです。

daimonnsigi (7)ダム顔を正面から見られる所まで公園の遊歩道があります。

daimonnsigi (29)
・・ちょっと雑草が多いけれど、この角度はいいです。

daimonndn.jpg
近くの信貴山観光Ii(アイ)センターにてダムカードが貰えます。

もし、時間があったら、すぐ隣の「とっくりダム」にも歩いて行けます。
ダムカードの左下の隅部に映っているのが「とっくりダム」、ホントにすぐ隣です。
自分は、写真を撮り忘れてしまいました、不覚!

さて、暑いので今回は「山城はなし!」、と男らしく公言しました。
しかも時計の針は、はや午後4時・・。もう帰らないと・・。
そうは言うものの、目と鼻の先には魅力満載の信貴山城址・・。

そんな後ろ髪を引かれる思いの中、奥方からの思いがけない一言。
「まだ時間いいよ~、上で松永弾正、待ってるんじゃない??」
「・・え?、いいの、ホントに?!(((o(*゚▽゚*)o)))」

・・奥方、どうやら自分の心の内を透視する能力があるのか?。
(否、単に自分のわかり易過ぎる性格故のみにて候)
ということで、次回、「奥方と行くゆる~い信貴山城めぐり」に変更です!
(ダムめぐり紀行はどうなるんでしょう??)



Ⓢは最寄りの有料駐車場500円/日。(2018年8月1日現在)
  ここからは朝護孫子寺・信貴山城へも近いと思います。
Ⓖは大門ダム天端、ここから南へとっくりダムへも行けます。


プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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